君のカラメル的愛情論

アラサージャニヲタが新米ママになりました。

妊娠初期④〜切迫流産

妊娠14週を迎え、一般的につわりのピークが過ぎて楽になってくると言われる頃。(私には楽になる兆しは全くなかったが、それでも吐く回数は1日2回程度に減ってきた。十分辛い)

 

それは突然のことだった。

 

深夜、トイレに行って下着を降ろすと鮮血が広がっていた。

 

え、なに…?

 

動揺しながらも、用をたす。毎回量を計らないといけないので、カップに尿を出す。

真っ赤。

 

パニックになりながら、ナースコールを押した。つわりが辛くて、妊娠初期症状について色んなネット記事を読んでいたから怖くなった。初期の鮮血は絶対に良くないはず。もう涙目だった。

 

深夜だったこともあり、とにかくその時は絶対安静。トイレと食事以外は動いてはいけない指令。その日はそれから一睡も出来なかった。一刻も早く診てもらいたかったのだが、診察は2日後になった。

 

翌日、鮮血は治まってきたかのように思えた。生理のように真っ赤だった血は、茶色に変化していた。でもまだ安心出来ない。出血していることには間違いないのだから。気が気ではなかった。僅かな食欲もついに全くなくなり、体重は妊娠前から5kgも落ちていた。

 

明日になれば診察してもらえる。震えながら1日を待った。でも、マイナスなことばかり考えてしまう。何がだめだったんだろう頭の中をぐるぐるする。

 

多分、心と身体は直結していて、私のこの心理的ストレスも良くなかったのだと思う。この日の夜、再度鮮血があった。

 

もう、パニックの極み。ああ、もうダメなんだろうな。同室の人に迷惑がかからないように声を殺して深夜泣いた。看護師さんは、大丈夫だよって言ってくれたけど何を根拠にそんなこと言ってくれるのか、と全く安心出来なかった。精神的にボロボロだった。心配したこへさんが時間休をとって、翌日の診察に着いてきてくれることになった。

 

内診台に登るステップを上がる足が震える。今まで生きてきた中で何よりも怖かった。

先生が「赤ちゃん、大丈夫だよ。ちゃんと生きているよ」と言ってカーテンを開けてモニターを見せてくれた。小さな命が動いている。私は人目も憚らず泣いた。

内診が終わると診察室に呼ばれるのだが、内診室は男性立ち入り禁止のため、こへさんは外で待っていた。

内診室から出てきた私は何も言わずに大号泣していた為、こへさんは「ああダメだったのか」と思ったらしい。診察室で一緒に先生から話を聞いたときにヘナヘナしていた。部屋を出てから「(私の涙が)ややこしい!」と呆れられたが心底ホッとしていたようだ。

 

この日から私は「悪阻」に加え「切迫流産」患者に切り替わった。切迫流産とは、流産と名がつくものの、流産になった訳ではない。あくまで流産しかかっている(初期に出血がある)が、心拍が確認されている状態を指す。きちんと対処すれば、高い確率で十分妊娠の継続が可能になる。

 

切迫流産の治療法として、毎日24時間点滴になった。つわりの8時間点滴だけでも苦しかったのに、これがまたとんでもなく辛かった。

ただでさえつわりの点滴で頑張っていた血管が悲鳴をあげていた。1本で4日もたせる針を1日で4回刺し直すことなんてザラだった。看護師さん泣かせで、何人もの看護師さんが入れ替わり立ち替わり私の腕を刺していく。腕は注射の跡だらけで青白く、元々痩せ型だった腕は更に細くなりさながらゾンビのようだった。

なかなか入らない腕に何度も挑戦してくれる看護師さんに申し訳ないのと、とにかく痛いので、耐えられなくなって泣いた日もあった。もちろんつわりだってまだ終わらない。吐きながら点滴はしなくちゃいけなくて、なぜこんな思いをしなければならないのか、なぜ私は他にいる大勢の妊婦のように元気な妊婦になれなかったのかと責めた。そのうち、腕の血管が入らなくなり、手の甲や指、小指の横などからも打った(腕とは比べ物にならないくらい痛くて、私は打つ際に叫ばずにはいられなかった)

 

正直、しにたいと思ったし、しんだら楽になれる…と考えた。でも、こんな状態でも赤ちゃんは生きている。生きようとしている。毎日、自分の中で葛藤と戦っていた。家族以外には見せられない姿だった。

 

入院中、トータル100回以上は刺したはずだ。もうこの先一生注射したくないと思った。(そういう訳にもいかないんだけどさ)

妊娠初期③〜点滴の恐怖

私が注射嫌いな理由は二つある。

一つは、血が苦手なこと。

自分の鼻血と生理以外の出血は、身体が震えてしまうほど。他人の血は一切ダメ。

もう一つの理由は、よく看護師さんに失敗されてしまうこと。

 

この妊娠を通じて言われまくったのだが、私はどうも血管が物凄く細いらしい。赤ちゃん用の針で打つこともしばしば。あまり注射が得意ではない看護師さんが打つと、2回3回はやり直しすることもザラ。

 

悪阻の点滴のみだと、大体8時間くらいで投与が終わる。毎日のことなので、針の先は腕に刺したまま、4日毎に交換するのが通常のスタイルらしい。

 

しかし私の腕は、血管が細いことが原因なのか、とにかくすぐに血管がパンパンに腫れ上がってしまうのだった。入院して2週間もすると、普通は4日持たせるはずの針も、1日持たなくなるようになってしまった。

 

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分かりづらいかもしれないが、手首と肘の下の太さが全然違う。とにかく腫れ上がって、夜眠れなくなるほど痛かった。

 

もうそれからは看護師さん泣かせの日々。寧ろ、1本で1日もてばいい方。

いくら一瞬の痛みとはいえ、1日に3本も4本も打つのはやっぱり痛いし、何より日に日に腕が穴だらけになっていく。左右の腕を交互に変え、血管を休めながら注射した。

 

つわりでただでさえ苦しいのに、この注射がとにかくストレスだった。妊娠がこんなに辛いものだとは思わなかった。感情が全てマイナスになり、毎日泣いていた。死にたいとさえ思う日もあった。5月6月は笑った記憶がない。そのくらい壮絶だった。

 

しかしこの状態すらも、まだこの先に待ち受ける更なる苦難と比べれば、まだ序の口なのである。

妊娠初期②〜ポリープ見つかる

入院しながらの妊娠8週目。

定期的な健診の最中、それは起きた。

 

内診中(いつまで経っても内診は慣れない)

先生「あっ、ポリープ出来てるね」

私「へっ!?」

 

正直めちゃくちゃ焦った。ポ、ポリープ!?っていうかポリープて!?大丈夫なのそれ!?悪性のものだったらどうしよう!?この「へっ!?」の1秒くらいで物凄い色んなことを考えた。

 

先生「んじゃ、取っちゃうからね〜」

私「へっ!?!?」

 

取る!?!?え、この場で!?!?今すぐ!?!?それって痛いんですか!?エッちょっと待って心の準備がまだ……アッーー!!!

 

……っという間に終わった。

 

早すぎて拍子抜けだった。

(o_o)←ほんとにこんな顔してた。

 

先生「ガーゼ詰めてるからね〜。3時間くらいしたら取ってね〜」

私「ハァ…」

 

あっという間の出来事すぎて半ば放心状態であった。その時はハァという言葉を出すので精一杯だった。

 

そして3時間後。

アレッ!?先生はさも自分でガーゼ取ってねみたいな感じで言ってたけど、どうすりゃいいんだ!?

タイミング良く部屋にきた看護師さんに聞いてみる。

 

看護師「ガーゼの先がちょろっと出てるから、それをシュッと引っ張って出してね!」

私「じ、自分でですか…!?」

看護師「難しかったら呼んでね!」

 

と、いうことは自分でやらねばなるまい。

 

トイレでおそるおそる確認してみる。

お、おお…ホンマや…なんかちょろっと出てる…これを引っ張るんやな…

紐状のガーゼがゆっくりと出てきた。

これが、想像以上に長い。どれだけあるのかもわからないし、一気に引っ張る勇気もないので、気分は口から国旗がいっぱいぶら下がっているガーランドを出すマジシャンの気分。

ある程度出てきてもまだ終わらないので、思い切って力を入れて引っ張ってみることにした。

すると出てきたのは、テニスボール弱くらいの大きさに丸まったガーゼ。

 

もう一気に恐ろしくなっちゃったよね。こんなサイズのものが入っていたのかと思うと。出産ってこの何倍もの大きさの赤ちゃんここから出すの!?無理無理無理無理。

 

この時点で結構びびってしまった私なのであった。

 

ちなみに、ポリープは妊娠すると出来やすいものらしい。

殆どが良性のものなので心配はないそう。私のものも、検査の結果良性ということでとりあえず一安心。

妊娠初期①〜入院生活開始

「悪阻(おそ)」による入院生活が始まった。対策はひたすら点滴。1日4本の点滴を打つ。毎日、尿の回数と量をきっちり記入。食事の支度はしなくていいし、管理されている食事メニューなので、こへさん的には入院していてくれた方が安心だったらしい。

 

私が入院した部屋は3人部屋で、真ん中だった。両脇には30週を超えた、切迫早産の妊婦さん達がいたのだが、これがまた考えものだった…。

 

悪阻患者とそれ以外の妊婦では、当たり前だが食事メニューが違う。私の場合は、とにかく食べられそうなもの、フルーツなどを中心とした量も少なく軽いメニュー。(それでも完食はなかなか難しかった)

しかし両脇の妊婦は、普通の食事なのだ。この頃、吐きづわりに加えて、においづわりも始まっていた私にとっては地獄だった…。

とにかく食事の時間になっては吐く。隣の妊婦の食事のにおいで吐く。しまいには、食事のワゴンが近づいてきただけで吐く。

人が食事をとっているのに、カーテン一枚隔てた向こうで吐いている。勿論、嗚咽の声だって聞こえているだろう。しかも1日に何回も。申し訳なくて仕方なかった。しかし、申し訳ないと思う余裕すらない。自分の目の前のことでいっぱいいっぱいだった。

この辺り、病院側もちょっと配慮して頂きたかった。何も、悪阻患者ともうすぐ出産の妊婦を同室にしなくても。

2週間ほど経ってから、同室全員が悪阻患者の部屋に移動させてもらったのだが。

 

においづわりは食事のにおいだけでなく、病院のシャワー室のにおい、トイレの消毒剤のにおい、歯磨き粉のにおい、義母がお見舞いに持ってきてくれたお花のにおい、自分の化粧品のにおい、これまた幅広い範囲で私を苦しめた。

 

毎日泣きながら吐いた。

妊娠は病気ではない。だから治療法なんてない。1日が過ぎるのをただひたすらに待った。時間がただ一つの薬だった。

少しでもつわりの症状が良くなる術はないかと、スマホで検索しまくった。妊娠中は画面酔いも酷かったが、藁にも縋る思いだった。ツイッターで「つわり しんどい」などと検索しては、自分と同じ状況で戦っている妊婦さんのツイートを見て鼓舞していた。

 

ちなみに、私がつわり中(初期)に好んで食べられたものといえば

・アイス(特にパピコ)

・スイカ

・しそおにぎり(小)

チキンラーメンのスナック

・氷

など。意外と濃い味のものがイケた。つわり期間中は、食の好みが常に変化していて、昨日までスムーズに食べられていたものでも、今日は急に食べられなくなるということが頻繁にあった。カットパインなどはつわりの症状が出始めた頃、寧ろそれしか食べられなかったのだが、入院して1週間もすると食べられなくなってしまった。つわり中はマックのポテトがよく好まれるというが、私はそこまで欲することはなく、食べてはみたけど脂っこくて途中で嫌になってしまった。

 

基本的になんでも吐いてしまっていたが、これを食べたら絶対に吐いてしまうというものが

・味噌汁

・ミンチ系肉類(シューマイ、ミートボール、ソーセージ等含む)

・ヨーグルト

・火の通っていないピーマン(加熱済ならOK)

などなど。これらは100%戻してしまうやつら。日によって何が受け付けなくなるか分からないので、食事はちょっとしたギャンブルだった。

 

つわりと仕事

私が妊娠判明したのが5週目だったので、気付くのは割と早かったように思う。当時はまだフルタイムで仕事をしていたので、職場への報告をどうするか悩んだ。

というのも、私は正社員ではなく、契約期間付のパートのようなものだったからだ。ちなみに更新時期はもう目の前だった。頑張れば妊娠のことを伏せたまま、乗り切れないこともないかもしれない。

が、私は役職のつく上司にだけは即報告した。何故なら、つわりが相当酷かったから…

 

妊娠中におけるつわりの種類は沢山あるという。私は1日に何度も吐く典型的な吐きづわりタイプだった。

 

つわりって、ドラマとかじゃ普段は元気でたまにウッてくるイメージだと思うでしょ?

 

とんでもない。

 

とにかく一日中気持ち悪い。24時間辛い。何をしてもどんな体勢をとってもだめ。「何か食べたいものある?」と聞かれても、なんにも食べたくない。お茶すら気持ち悪い。っていうか言葉すら発したくない。(喋ると出そう)こへさんが色々考えてごはんを買ってきたり作ったりしてくれたが、ひと口、ふた口でギブアップ。

仕事が休みの日は全く動けず、トイレに行くことすら億劫だった。常に自分の傍にゴミ箱があった。妊娠が関係しているのかは分からないが、若干の肌寒さも感じていて、5月も目前というのにストーブを点け、毛布にくるまっていた。

 

それでも、今思い返せばこの時期はまだマシな方だった。職場へは片道20分自転車を漕いで通勤していたし、昼休憩を除いて一応仕事はこなしていた。何かに集中すれば、その間10分、20分でも吐き気を忘れられる時間があった。(しかし相当何度もトイレへ駆け込んではいたけど)

吐き気は特に寝起きが一番酷く、目が覚めてもしばらくは動くことができない。なので、私は通常起床時間より1時間早く起き、超ゆっくりと朝の支度を整えてから仕事に向かっていた。

 

職場では上司にのみ報告していたと上記にも書いたが、私の具合の悪さは一目瞭然で、他の職員にかなり心配をかけていた。でも、まだ日数が浅すぎるので妊娠のことを言う訳にもいかない。ひたすら、「体調不良で…」と言う他なかった。

 

そもそも、妊娠期間で一番辛いつわり期間に、堂々と「私、妊娠してます!」と公表出来ないのもどうかと思う。安定期に入るまでは 何があるか分からないから、周りに言えずに無茶をする人だっているだろう。この期間こそ赤ちゃんを守らないといけない時期なのに、周囲には体調不良の人としか認識されない。世知辛い世の中だ…。

 

そんなこんなで私はフラフラになりながら日々をこなすしかなかった。あまりにも苦しい日は、仕事帰りに点滴を打ったりもした。が、この点滴を打ったからといって気持ち悪さが緩和されることは一切無い。

つわり期間に投与できる点滴は、所謂、脱水症状を防ぐための栄養と水分を補給するためのものなので、吐き気が治る成分が入っている訳ではない。それを知らないこへさんは、とにかく点滴打ちに行こう!とばかり催促してきたが、打ってもスッキリすることはなく投与に2時間もかかるので、元々注射嫌いな私は点滴に通うことにあまり心が向いていなかった。

 

だが、いよいよそうも言ってられなくなった。

つわり中はとにかく何も口にしたくない。でも胃に何も入っていなくてもとにかく吐く。胃液まで吐く。

ついに私は脱水症状に陥り、見兼ねたこへさんは私を入院させることにした。

 

長い長い入院期間がこれから始まることを、この時はまだ、知る由もない…。

妊娠発覚

2016年4月の下旬。

私はおたく仲間の友人達と、三宅健くんの出演する「滝沢歌舞伎」を観劇する為、上京していた。

しかも2泊3日の3公演観劇の合間に、ディズニー、セーラームーン展、アナ雪とプリンセス展を含むタイトスケジュールっぷり。更にはその隙間に、築地市場の散策と、公演期間中に骨折した自担の快気祈願に東京大神宮へお守りを買いに行くというミッションまで加えた、まさに分刻みのスケジュール。私は、この旅行をそれはそれは楽しみにしていた。

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最初に違和感を感じたのは2日目の朝。

目が覚めた瞬間、なんとなく気持ち悪くてすぐに起き上がることが出来ない。昨晩食べたつけ麺が胃もたれでもしたのだろうか。その程度に思っていた。

 

いよいよおかしいなと思い始めたのは、夜公演の時だった。

滝沢歌舞伎には、幕間がある。一般的な舞台と少し違うのは、会場が新橋演舞場ということもあり、幕間に飲食が可能ということだ。

上演中は集中していることもあって、穏やかだった。しかし、幕間になるとなんとなく調子がおかしい。場内で販売しているアイスを購入して食べてみると少しだけ落ち着いた。それでなんとか後半も集中出来た。というか、半ば意地だった。目の前の自担は何よりの特効薬だった。吐き気も忘れちゃう。

 

公演が終わって、ファミレスにて仲間とごはんを食べたが、あとは解散するだけだったので私は友人たちに心配かけてはいけまいとひたすら体調不良を隠した。なんとかみんなを見送り、その日宿泊予定だった東京在住の妹の家に一人向かう道中、それはそれは地獄だった。日曜日。最終近くの満員電車の中、吐く寸前だった。揺られる電車の中、なんとか座ることが出来、朦朧としながらなんとなくこの時「あぁ、私妊娠したんだ」と謎に確信した。

 

更に翌日。予定がなければ多分早急に広島へ戻っただろう。しかしこの日は、池袋で開催されているアナ雪展を観に行くのだ。これは誰とも約束していた訳でもない、最初から一人で行く予定だったが、既にチケットを手配していた為、行かないという選択肢はなかった。この日も朝から気持ち悪くて吐き気が止まらなかったが、意地でも展示を観に行った私のがめつさというか、強欲っぷりは今思い返しても滑稽だったと思う。

 

ようやく帰路に着く新幹線に乗ったものの、車内ではとにかくぐったりしていた。こへさんには事前に連絡。この時点で何の根拠もなかったが、99%妊娠していると思う、と伝えた。

 

仕事で外回り中だったこへさんは駅まで迎えに来てくれていた。ようやく家に着いて真っ先に吐いた。吐いてからすぐに妊娠検査薬を使った。陽性だった。

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それからすぐに、調べておいた産婦人科へ連絡し、診断。この時点で赤ちゃんの姿はまだ見えなかったが、袋を確認。

プロローグ

こんにちは。みきぽんです。

 

2016年12月に長男を出産し、新米ママになった私。

結婚して3年目のことである。

 

「赤ちゃんはまだなの?」

そんな、周囲から悪意のないプレッシャーを少なからず受け取ってはいた。夫・こへさんも、本当はもっと早くから子供が欲しかったのも知っている。結婚前から口癖のように「子供が欲しい」と何度も言っていたのを記憶している。

 

なのに何故3年もかかったのかって?

 

それは私がジャニヲタだから。

 

結婚した翌年 2015年は、我が人生を捧げて応援してきたV6の20周年。

私は懇願した。「頼むから20周年は好きにさせてくれ。生活費には一切手を出さない。(重要)」

器の広いこへさんはこれを承諾。おたくにとっては一大イベントであるが、よくよく冷静に考えれば、馬鹿げた話である。それでもこへさんは待ってくれた。旦那より自担を選んだ妻。そう言われてもおかしくはない。しかしそれが結婚の条件でもあったのだ。守ってもらえないとこの先幸せな結婚生活は保証できない。(大真面目)

 

こうして無事にツアーを見届けてから、二人で妊娠について真摯に向き合う事を考えはじめたのである…。

 

これは、汗と涙の記録日記。

 

 

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息子。

2016年12月生まれ。

まるい。

なきごえがトリ。

 

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夫(こへさん)

広島県福山市出身。

見た目に反して超子煩悩。

肥満体型。

 

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作者(みきぽん)

富山県出身。

とにかくおたく体質。

過去にこども写真スタジオで働いていた経験有。